オギの備忘録

やあ、私の名はオギだ。何かを発信したかった。ブログを開設した理由はそれだけで十分さ。

哲学で紐解く「なぜ高校生が主役のスマホゲームはヒットするのか?」Part1

[目次]

 

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プロセカ面白いから絶対やれ



はじめに

 

 どうも。お久しぶりです、オギです。


 さて、突然ですが皆さん! スマホゲームを恒常的にプレイしていますか?
 スマートフォンの誕生から約12年。より気軽に、どこでもプレイできるという理由で、スマホはゲームの新しいプラットフォームになりました。現在では魅力的なスマホゲーが数年単位でサービスを提供し、家庭用ゲーム機のシェアを食うほどに成長しました。今後もスマホゲーの市場は拡大していくことが容易に想像できます。


 一説によると、人間が本気でスマホゲーを掛け持ちできる限界数は2~3個らしいです。それ以上になると、あまり遊ばなくなるゲームが出てきたり、日常生活に支障が出るとか。

 

なぜ高校生が主役のスマホゲームはヒットするのか?

 

 Google Playのセールスランキングを見ると、長年に渡って上位をキープしているゲームもあれば、新しいゲームがセルラン1位になっていたりする光景を見ることがあると思います。そこでふと私は思いました。

 

「高校生モノの音ゲーって確実に成功してね?」

 

 これは決して私の個人的な意見ではないと思います。実際に今までにヒットした高校生モノの音ゲーを見ていくと、


ラブライブ!(スクフェス、スクスタ)
アイドルマスターシンデレラガールズ スターライトステージ
BanG Dream! ガールズバンドパーティ
・D4DJ Groovy Mix
・プロジェクトセカイ カラフルステージ!feat.初音ミク


などが挙げられます。
 ではなぜ、「高校生が主役のゲーム」というコンセプトがかぶっているのに、これらのアプリは全てヒットしているのでしょう? 

 普通に素人が分析しても面白くないので、今回は「哲学」を用いて分析してみようと思います。

 

では実際に哲学を用いて紐解いていく

 

 その前にまず注意事項をば。


・私がこの記事の執筆に至ったのは、プロセカ(プロジェクトセカイ カラフルステージ!feat.初音ミク)にドハマりしたからです。カップリングとストーリーが神。
・私は哲学を研究しているわけではありません。なので、これから展開する持論はガバガバです。前回同様許して

……本編入ります。

 

 なぜ高校生が主役のスマホゲームはヒットするのか? 哲学的に分析すると、理由は3つ挙げられます。


①プレイヤーが高校生に対するルサンチマンを持っているから


②「高校生」という適度に自由・制約のある存在に憧れているから


③価値を見出す対象となるキャラクターが多く登場するから


これらを一つずつ説明していきます。

 

 また、あまりにも分量が多くなってしまったので、この記事は3回に分けて投稿しようと考えております。

 そのため、今回は①のみの解説をします。

 

理由1:プレイヤーが高校生に対するルサンチマンを持っているから

 

 まずルサンチマンとは、

「弱者が、力ではかなわない強者のことを悪に仕立て上げ、自分を納得させる心理」

のことを言います。これは、かの有名な哲学者「フリードリヒ・ニーチェ」が、キリスト教は奴隷道徳であると批判する際に持ち出した理論です(詳しくは倫理の教科書なんかに書いてある)。
 ちなみに、このルサンチマンの元々の意味は、「恨み、怨恨」です。このままだと言葉が強すぎるので、ここでは「嫉妬、羨望」とでも言い換えておきましょうか。


 では、我々は高校生のどこに嫉妬する理由があるというのでしょう? 普通に考えて、社会人と高校生を比較したとき、自立性、財力、生活基盤、生活の自由度(同居人がいないとか)などは圧倒的に社会人が有利です。

 

 では社会人になくて高校生にあるものといえば何でしょう? 

 それは、「高校生という肩書き」です。もっと詳しく言えば、社会的責任が不十分であること、ただ目の前の学生生活のことを漠然と考えていればいいこと、学校というコミュニティの基準で評価されるということ、といったところでしょうか。


 ところで、高校生という肩書きを持つことが高校生の特権であるならば、我々はこう考えるはずです。「高校生はこうあるべきだ」と。高校生という肩書きと特権が存在することで、彼らのイメージはステレオタイプじみたものになってしまうのです。従って我々は、「高校生とはこうあるべきである」という虚像を無意識に作ってしまっています。少し強引ですが、これがルサンチマンの正体です。高校生に対する虚像を勝手に作り上げ、現在の自分と照らし合わせることで、嫉妬の感情が生まれるのです。

 

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これもまたルサンチマン

 

 この「虚像を勝手に作り上げる」という行為は、主体的真理の影響を強く受けています。「主体的真理」とは、セーレン・キルケゴールが提唱した考え方で、自分にだけ当てはまる真理」のことです。この考え方は、ヘーゲル哲学における「客観的真理」を批判しています。
 主体的真理はいわば、自分の経験と考え方で如何様にも変化するわけです(自分にとって受け入れられる真理であればいいから)。では、「高校生の虚像を勝手に作り上げる人たち」はどういう人になるのか。そう、学生生活にコンプレックスを持っていた人なのです。

 

 では、彼らはこのままゲームの登場人物に嫉妬を抱いたままプレイを続けるのでしょうか? いえ、そうはなりません。彼らはゲームの登場人物に「学生のイデアを見るのです。イデアという単語は聞いたことがある人も多いと思います。プラトンの提唱した「永遠不変の実在」のことです。つまり「学生のイデア」とは、それぞれが想像する理想の学生像、または学生生活のことです。
 ゲームの登場人物にイデアを見出すことで、自らが学生時代に体験できなかったことを追体験しようとするのです。

 

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イデア論の一部

*1

 

 そして、人気コンテンツには二次創作が欠かせません。私は、コンテンツの二次創作は、能動的ニヒリズムに似ていると思っています。これはニーチェが提唱したもので、自分自身で新しい価値を作り出す生き方のことです。二次創作はまさしく「新しい価値の創造」です。公式の説明が不十分なところ、ストーリーで明言されていないもの、はたまた公式が言及していないもの。このような設定を題材としたファンアート、小説は「価値を創っている」と言えるのではないでしょうか?

 (二次創作は大体pixivにある)*2


つまりここまでの話を総括すると、


①プレイヤーは登場人物にルサンチマンの感情を持つ 

→ 登場人物に対する憧れ、願望の投影


②登場人物に「高校生のイデア」を見出す

→ 物語の追体験


③能動的ニヒリズムに基づき、二次創作が活性化 

→ 結果としてコンテンツが発展する


ということになります。

 

 というわけで今回はここまでとします。

 続きはまた次回。

 

[参考文献]

「哲学用語辞典」 田中正人 斎藤哲也 編集監修

2015年3月1日 第1刷発行