オギの備忘録

やあ、私の名はオギだ。何かを発信したかった。ブログを開設した理由はそれだけで十分さ。

ルックバックを読んで

[目次]

 

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※写真雑でスマン。

 

はじめに

 

 どうも、オギです。さて、今回は読書感想文です。とは言っても漫画の感想文なんですけど。

 今回は「ルックバック」(著:藤本タツキ)を読みました。本作品は2021年7月19日発売の「少年ジャンプ+」に読み切りとして掲載された作品です。読み切りと言っても,

全143ページからなる長編読み切りです。

 本作品は掲載されてからすぐにSNSで話題になり、ジャンプ+史上最多閲覧読み切り作品となりました。作者が人気漫画「チェンソーマン」を手掛けているということもあるのかもしれませんが、本作品には、昨今の漫画には稀有な、心を引き付ける何かがあるようにも感じます。

 

あらすじ

 

以下は2021年9月3日発売の単行本裏に書かれているものです。

 

自分の才能に絶対の自信を持つ藤野と、引きこもりの京本。

田舎町に住む二人の少女を引き合わせ、結び付けたのは漫画を描くことへのひたむきな思いだった。

月日が流れても背中を支えてくれたのはいつだって。

唯一無二の筆致で放つ青春長編読切。

 

感想

 

以下ネタバレ注意!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 物語前半では、学年新聞の寄稿で人気を博していた藤野が、天才的な画力を持つ京本に嫉妬し努力するシーンが描かれている。ポッとでの天才に注目を全て持っていかれた藤野は、2年間死ぬ気で絵の勉強をした。しかし、いくら頑張っても京本の放つ天才的な画力には追い付けない。そのことにバカらしさを感じた藤野は筆を折ってしまう。

 

 これは現実問題でもよくある話なのだろうと感じる。「自分の上位互換は世の中に常に出回っている」というのはよくある話だが、創作の類になってくるとそれが顕著になってくる。絶対的な才能を目の当たりにした瞬間、「自分のやっていることに意味なんてない」と突きつけられてしまう恐怖感は私にも分かる。

 私は最近pixivで小説を投稿している。数本作品を書いたが、普段読んでいるプロの小説に比べて稚拙に感じるときがある。それは、このブログを執筆している今も感じている。「自分がわざわざ時間をかけてこんな記事を書かなくても、他の誰かがもっと魅力的に伝えてくれるのではないか」と。

 

 藤野が筆を折って半年後。小学校の卒業式。彼女は京本の卒業証書を届けに自宅を訪問する。そこで、京本が藤野の作品のファンであることを知る。その後、藤野は「新作を描いている」と適当なことを言ってしまうが、彼女の中の創作意欲が再燃し、再び筆を執ることになる。そして、最終的には京本と合同で作品を創ることになる。

 

 私が思うに、ここに創作活動をする理由の全てが詰まっているように感じる。圧倒的な才能の差に絶望して筆を折ったり、他人からの評価に一喜一憂したり、自分の中の創作意欲が抑えられなかったり……。

 思うにそういうことなのだと思う。創作活動は「誰かを超えるため」でも「名声を得るため」のものでもない。もっと根本的なところに「自分がそれを創り上げたい」というクリエイティブな気持ちがある。twitterで神絵師と呼ばれる人たちの作品がじゃんじゃん流れてくるようになった現代。人々は創作活動の意義を見失っているのではないか。

 

 物語後半では、藤野と京本が顔を合わせなかった世界線の話が展開される。結論から言ってしまえば、藤野と京本が顔を合わせようが合わせまいが、2人で漫画を描くという世界線に収束する。この表現は、「どんな道を辿ろうと、創作をすることからは逃れられない」ということを表しているのではないかと思う。思うに、創作活動は一種の呪である。どんなに絶望に打ちひしがれようと、自分の中に「何かを創りたい」という思いがある限り、全ての人は取りつかれたように筆を執ってしまう。何度同じ痛みを経験することになっても。そういうことだろう。

 

 本作品みたいに、丁寧に説明しすぎない作品は減りつつあると思っている。確かに、作中に説明を散りばめて読者が分かりやすいような作品を創る、というスタンスは読者にとってはありがたい。だが、どんな作品でも、解釈するのは読者自身だ。「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」というニーチェの言葉がある。創作物にどんな事実を創っていくか。それを決定するのは読者のみである。

 

 本作品は一見の価値がある。創作活動を行っている人は勿論、そうでない人も。読めば分かるだろう。創作者の異常さが。そして、そんな彼らの儚さが。