オギの備忘録

やあ、私の名はオギだ。何かを発信したかった。ブログを開設した理由はそれだけで十分さ。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読んで

 

 スマホが普及してからもう何年経つだろうか。電車内をグルリと見渡すと、ほとんどの人がスマホをイジっているように思える。
 今どき電車内で新聞を広げるような人は殆ど見なくなったが、電車内で読書をする人もまた減りつつある。
 そんなご時世に一石を投じるようなタイトルの本書。読まない理由がなかった。

 

 本書は「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という疑問の解決のために、労働と読書の関係性を明治時代にまで遡り、それぞれの時代背景と読書の在り方について考察を行う形で進んでいく。

 一見、近代史の振り返りをしているだけのように思えてくるが、読み進めていくと、現代人が読書離れを引き起こすまでの過程を一から紐解くことができて面白い。
 最終的に本書は、現代人の読書離れの理由を「読書が現代人にとってノイズになってしまっているからである」と考察している。

 

 なぜ読書がノイズになってしまうのか。それは現代人が仕事を全力で取り組みすぎているからである。
 長時間労働をしていれば、当然読書に割ける時間は短くなる。しかも日本社会では、自分の仕事の内容について完璧に理解しているという前提を強要している節がある。
仕事で必要な情報は知っていて当たり前。明日の業務でどのように動くのか事前に考えておくのは当たり前。休日に仕事の改善案を考えたり、情報を整理しておくのは当たり前。まあ、そんな感じである。
 実際、私も社会人になってみて、業務時間外に明日の仕事の動向について考えたりすることが増えた。有給を1日使うと、仕事に置いてかれてしまうのではないかと少し不安に思うこともある。
 だが、冷静に考えてみてほしい。頭の中が「仕事」で埋まっている状態で、果たして物語や論説の世界に集中することなどできるのだろうか?
 これが仕事に全力で取り組みすぎている弊害である。

 

 それに加えて、インターネットの普及である。インターネットは必要な情報を必要なときに私たちに提供してくれる。最近では、Youtubeなどが活用しているレコメンド機能が様々なメディアに導入された影響で、私たちは「自分が欲しい情報のみを摂取できる環境」に置かれている。そうなってくると、自分に必要がない・興味がない情報は全て「ノイズ」になる。
 読書はインターネットとは異なり、ノイズの塊である。読み手の興味を引く内容だけで紙幅が埋まることはないからである。

 

 労働に時間も思考も支配された状況では、所謂「タイムパフォーマンス」を求めてしまいがちになってしまう。
 本書は結論として「何でもほどほどにやろう」としている。これは仕事だけでなく、趣味なども含まれる。何事にも余裕を持った人生構築が、結果的にQOLを向上させる。
自分の人生を生きられるのは「自分」だけなのだ。

 一度しかない人生、悔いのないように生きるにはどうすればよいか。これはそういう話だと思う。

「ラプラスの魔女」を読んで

人間は優れた知能や高度な文明をもちながら尚、未来に対しては盲目である。

 

 

ラプラスの悪魔」をご存じだろうか?ある時点における全ての初期条件、及び状態を把握し、未来に起きる事象を全て見通すことのできる超存在の事である。
 簡単な物理法則で説明した方が分かりやすいだろう。高校物理で学ぶ「斜方投射」の式を例に挙げる。

 

v(x) = v(0)conθ x軸方向の速さ(m/s)
v(y) = v(0)sinθ-gt y軸方向の速さ(m/s) 
※v(0) = 物体の初速(m/s)、θ = 投射角度、g = 重力加速度(9.8m/s^2)、t = 経過時間(s)

 

 この場合、v(0)、θ、tが分かっていれば、ある時点における物体のx及びy軸方向の速度を計算で求めることができる。また、上記の式を時間積分した後に然るべき値を代入すれば、ある時点における物体の位置を計算で割り出すことができる。
 もし、高校生が物理の問題を難なく解くように、全ての物体の動きから人の動き、はたまた人類の未来まで予想することができる人間がいたとしたら?そしてその人間が悪事に手を染めようとしたら?

 

 物語は、山奥で起きたある不審死から始まる。地球化学専門の大学教授「青江」は、専門家的視点から事件の調査に関わることになる。そこで出会った謎の少女「円華」。彼女の正体は「ラプラスの魔女」であった。常人では到底たどり着けない事件の真相の裏に隠れた、狂気の全貌とは――。

 

 流石は東野圭吾と言うべきか。とても読みごたえがあり、面白かった。特にラスト100ページの怒涛の展開には引き込まれた。

 

 我々は、遠い先の未来がどうなっているか予想することはできない。だからこそ、未来に希望を抱くことができる。明日は今日よりもいい日になるだろう。数年後にはこうなっているだろう、などと。
 では、自分の将来を含む全ての未来を見通すことができてしまったとしたら?確定している未来をなぞるのは非常に退屈で、毎日が空虚に思えてくることだろう。
 望まずにラプラスの悪魔になった者と、望んでラプラスの魔女になった者。彼らの行く末は、彼らが見据えている未来とは。少なくとも、常人が理解してはいけない領域なのだろう。

「死ねない呪い」にかけられている

希死念慮」とはもう7年以上の付き合いになる。

 全ては高校の勉強に付いていけなくなったことから始まった。成績と共に、自尊心・自己肯定感も低下していった。学校という閉鎖環境、周りからのプレッシャー。精神的に追い詰められていった。
 高校3年生になり、心の支えであった部活を引退したときに初めて「死にたい」と思った。
 
 浪人しても、大学生になっても、社会人になっても、希死念慮は頭の片隅にちらついていた。それでも自傷行為に手を染めることはなかった。ただ単に死ぬのが怖いだけなのか、或いは未来への希望を捨てきれなかったのか。それとも、死ぬのが面倒臭かっただけなのか。この記事を書いている今も、みっともなく生きている。
 
 どうやら日本では、全国民の20~30%は「死にたい」と思ったことがあるらしい(厚生労働省、令和3年度 自殺対策に関する意識調査 報告書 [アンケート母数2,009人])*1。実際に「自殺」という選択をした人は21,007人もいる(警察庁 令和3年中における自殺の状況 )*2。令和3年10月1日時点での日本の人口は約1億2550万人なので*3、全国民における自殺者の割合としては約1.7%となる。私はその残りのパーセンテージに留まっているだけに過ぎない。

 そんな私でも「生きていていい」と肯定してくれる人がいる。仕事で役に立てず、メンタルを削られ、無力感に苛まれていた私に対して「死ぬな」と明言してくれた人がいる。
 その人だけではない。私の交友関係は少ないが、それなりに多くの人の存在によって生かされている。「取り合えず今日を生きてくれ」と本気で願ってくれる人がいる。私と数か月先に遊ぶ約束をしてくれて、生きる理由を提供してくれる人がいる。改めて思うと、私は彼らの存在によって生かされているのだ。

 これは呪いだと思う。私は皆から「死ねない呪い」をかけられている。

 

[参考資料]

「新世界より」を読んで

 かなり面白かったです(小並感)。

 

【目次】

 

概要

 本作は、現代文明が何らかの形で滅んでから1000年後の日本が舞台になっている。文明レベルは大きく後退してしまったが、人々は神の力とされる「呪力」を身につけ、他の生物への優位性を確保しつつ人生を謳歌していた。ここで言う呪力とは「人知を超えた力」とでも言うべきか。物を自在に動かしたり、物の形を変えたり……。状況に応じて何でも実現することの出来る力の源である「呪力」は、人間だけが持ち得る、まさに「神の力」としか言いようがない。

 しかし、とある事件をきっかけに、主人公たちは世界の真実に気が付いていく……。

 

 本作は、そんな世界で生まれた主人公「渡辺早季」の一人称で展開されていく。文庫本版は上・中・下の3部作でページ数は1400以上になる。まさに長編SFである。

 

感想

 文庫本版にして1400ページ越えのボリュームもそうだが、内容も「圧巻」の一言に尽きる。

 本作の特徴の1つとして、造語による固有名詞が大量に出てくる。上巻最初の10ページだけでも「ミノシロモドキ」だの「神栖66町」だの「バケネズミ」だの、ネット検索しても全く分からない固有名詞が頻出する。正直ここで本書を読むのをやめたくなる気持ちも分かるが、是非とも文庫版上巻229ページまで読んでみてほしい。「呪力」とは何か。この世界がどのような過程を辿ってきたのかが解明し、その勢いのままに中巻、下巻まで読み進めることができるからである(と解説には書いてある)。

 

「呪力」という神の力、空白の1000年間、改変された常識、そしてこの世界の真実とは。

 常人には到底思いつくことの出来ない発想と展開に触れられる、数少ない作品だと私は思っている。

 是非読んでほしい。というか読め。活字が無理だったらアニメ版もあるから見ろ。以上。

 

 

俺の過去を振り返る(大学編)

「いずれ書く」と言っていたにも関わらず、前回の過去回想編から1年以上経ってしまいました。

 今回は大学編(最終回)です。

 

※過去の記事はこちらから

ogichangs-thinking.hatenablog.com

 

ogichangs-thinking.hatenablog.com

 

ogichangs-thinking.hatenablog.com

 

[目次]

 

大学入学

 成績底辺のまま何とか高校を卒業、1年間の浪人を経て。2018年4月、俺はセンター利用で引っ掛かった私立大学に入学した。

 正直に言うと、その大学は母校である高校と比べて偏差値は低かった(高校と大学の偏差値を単純比較するものではないが、数値にして20は下がったと思う)。

 高校、浪人の4年間全く勉強をしてこなかったとはいえ、一時期は進学校に通っていた身である。「俺は進学校出身だ」というプライドを捨てきれなかったのだろう。これからの未来に絶望しかなかった。

(加えて、通学の際は貧弱なローカル線を使って1時間半かけなくてはいけないこともツラかった)

 

 しかし、入学後のオリエンテーションが終わるころには自然と気持ちを切り替えられていた。

 いくら現状を後悔したところで、俺がこの大学で4年間過ごさなければいけないという事実は変わらない。ならば、大学生というモラトリアム期間を有効に使わなければいけないと思った。

 

大学1,2年

 大学の講義にはほぼ全て出席し、単位は全て取得した。自分のプライドにかけても単位を落とすわけにはいかなかった。

 大学では主に情報系の勉強をしていた。中にはPCを使ったプログラミングの講義なんかもあったので、自由に使えるPCを持つことができたという意味でも、世界が広がったような気がした。

 大学生になったということで、文芸サークルに入ってみたりもした。私がpixivで小説を書くようになった要因はここにあるのかもしれない。まあ、文化祭で作品発表した後すぐに幽霊部員になって、流れで退部したのだが。

 

 思えば、大学での活動以外にも色々とやっていた。

・前期のうちに教習場に通い、3か月ほどで免許を取得した。

・1年生の冬にアルバイトを始めた。

・2年生になってすぐにIT系の資格に挑戦し、合格した。

・通学時間中に本を読むようになった(ラノベをよく読むようになったのもこの辺りから)

 

 入学前後の俺からしたら、よくここまで立ち直ったなと思った。

大学でできた友人は決して多くない。サークル活動をエンジョイするような学生ではなかったが、それなりに充実していたと思う。

 

大学3,4年

 大学3年のときに、例のコロナ禍に直面した。3年後期から徐々に対面での講義も増えて行ったが、キャンパスは随分とさみしくなった。振り返ると、この時期くらいが一番大学の施設を有効に使えていたと思う。

 コロナ禍でそれなりの制約があったものの、SA(Student Assistant)などの貴重な経験をさせてもらった。

 また、3年の夏ごろから徐々に合同説明会、Webインターンの参加など、就活準備も進めていった。

 

 4年になってからは、卒業研究を残すのみという状態になっていたため、残りの時間をアルバイトや資格取得のための勉強、自分の趣味などに費やしていた記憶がある。

 振り返ってみると、4年生の5月頃に初内定獲得、7月頃に内定承諾。卒業研究も何とか形にすることができて、アルバイトは就職するギリギリまで続けることができた。

 ウェイ系大学生のように人脈を広げたり、サークル活動を満喫できたわけではないが、高校・浪人時代の底辺ぶりと比較すると、それなりに上手くいった4年間だったのではないかとも思っている。

 

おわりに

 かなり大雑把に大学4年間を振り返ってみた。もっと細かく書こうとすれば内容のある記事にできるのだが、興が乗らないのでこの辺りで。それにどれだけ細かく自分の過去を書こうと、書いたこと全てが読み手に伝わるわけ。それに、私の人生や思想は恐らく誰にも理解されない。というわけで、この辺りが引き際だと思った次第。

 

 本記事をもって「俺の過去を振り返る」シリーズは終了となります。もしかしたら、今後3年くらいのスパンで「俺の過去を振り返る(社会人編)」が始まる可能性があるかもしれませんが。結局それは私の気分次第ということで。では。