[目次]
はじめに
どうも、オギです。前回投稿から少し間が空きました。
この記事は、前回の『哲学で紐解く「なぜ高校生が主役のスマホゲームはヒットするのか?」part1』の続きの記事となっています。
もしまだ見ていなければ、是非見てください。
ogichangs-thinking.hatenablog.com
では本題に入ります。
前回のおさらい
前回の記事で、
「高校生が主役のスマホゲームはなぜヒットしたのか?」という命題に対して、3つの理由を挙げました。
①プレイヤーが高校生に対するルサンチマンを持っているから
②「高校生」という適度に自由・制約のある存在に憧れているから
③価値を見出す対象となるキャラクターが多く登場するから
前回は①について解説したので、今回は②について解説していきます。
理由2:「高校生」という適度に自由・制約のある存在に憧れているから
高校生には自由と制約が適度に与えられていると思います。自由の面で考えると、
・電車通学・部活の遠征によって、行動範囲が増えた
・交友関係が更に広がった
・アルバイトなどで自由に使えるお金が増えた
・モラトリアム期間(社会的責任・義務から猶予される期間)である
制約の面で考えると、
・実家暮らしなので遠出がしにくい
・勉強やテスト、部活、家庭環境に縛られる
・大人と比べて出来ることが少ない
などが挙げられます。
こうしてみると、高校生は必ずしも「置かれた環境」という意味では優れている存在とは言えません。しかし、課される制約を加味しても、我々は高校生に憧れるのです。
では、生活における制約があると、どのように良いのでしょうか?
学校や家庭環境、財産、地位などの制約を個人のアイデンティティとすると、学生は軽度のパラノイア(偏執症)に侵されていると言うことができます。この「パラノイア」というのは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが考案したもので、自分のアイデンティティを作ることで社会的な役割に縛られ、他人の評価を気にしながら、多くのしがらみを背負って生きている状態のことを指します。
社会人は全ての責任が自分にあるので、このパラノイアによって自分の価値観・思想・あるいは人生が固定化してしまう確率がかなり高いです。しかし、学生はモラトリアムの中で生きているので、「パラノイアに陥っている」と言えど、まだ自己を形成する猶予があります。
ちなみに、パラノイアと対をなす考えとして「スキゾフレニア(分裂症)」という考えがあります。これは、一切のアイデンティティや人格を持たない状態のことを言います。これだけを聞くと、人生において何のしがらみもないスキゾフレニアの方が楽に生きられるという気がしてきます。しかし、何のアイデンティティも持たないというのも考えものです。現代においてスキゾフレニアの立場を取っていると、いずれ選択のパラドックスに陥ってしまうからです。
さて、ここまでざっと制約について話してきました。話は脱線していないので大丈夫です。
それでは次に、軽度のパラノイアの状態にあるとどんなことが起こりうるのか考えてみましょう。
ここで、ミシェル・フーコーが提唱した「パノプティコン効果」について説明します。パノプティコン*1とは、ジェレミー・ベンサムが考案した監獄のシステムのことです。円形になった独房の中心に監視台があるのですが、囚人は監視員の姿を捉えることはできません。この状態において囚人は、「いつ監視員に見られているか分からない」と思うようになり、規律を守るようになります。それを続けていくうちに、全ての囚人が規律を守るようになるというものです(詳しく調べると面白い)。
パノプティコンの説明が長くなりましたが、これから「パノプティコン効果」について説明します。これは、常に監視されているという意識から、自ら好んで規律に従うようになることです。監視というのは、家族や学校、地域などのコミュニティからインターネットにまで及びます。この「監視」も人生における制約の1つと見ると、この監視自体もパラノイアと言えるのではないでしょうか?
そして先程、学生は軽度のパラノイアに侵されているという話をしました。ということは、学生はこのパノプティコン効果を抜け出せる可能性が高いということです。
フーコーの考えでは、パノプティコン効果から外れた人は、狂人としてコミュニティから除外されると述べています。しかし、カリギュラ効果ではないですが、人は規制された事柄を破りたくなるものです。パノプティコンという監獄から逃れたがっている自分の姿を、他人に投影してもおかしくはないでしょう。
詰まる所、我々は社会というパノプティコンからの脱却を無意識化に願っているのです。しかし、それは現実的ではないので、キャラクターに自分を投影してパノプティコンからの脱却を代行させているのです。それが軽度のパラノイアを持つ高校生のキャラクターに投影しているのなら尚更。
まあ、この「キャラクターに自分を投影してパノプティコンからの脱却を代行させている」という考えがルサンチマンそのものである、と言われればそれまでなのですが……。
ここまでの話を総括すると、
①学生は軽度のパラノイアに侵されている
→ パノプティコン効果を脱却できる可能性を持ちうる
②我々は社会というパノプティコンから逃れたがっている
→ 高校生のキャラクターに自己を投影し、パノプティコンからの脱却を夢想する
③パノプティコン脱却を架空のキャラクターに代行させること自体がルサンチマン
→ 結果、高校生という立場、軽度のパラノイアに憧れている
ということになります。
では続きはpart3で。
「参考文献」
「哲学用語辞典」田中正人 斎藤哲也 編集監修
2015年3月1日第1刷発行