オギの備忘録

やあ、私の名はオギだ。何かを発信したかった。ブログを開設した理由はそれだけで十分さ。

「WALL」を読んで

 今回は少しSFチックな本を読みました。

[目次]

あらすじ

 202X年夏、色丹島である奇妙な事件が起こった。シャボン玉を薄く伸ばしたような半透明の巨大な壁が出現したらしい。そしてその壁に触れた人は、衣服や荷物だけを残して、その体だけを消した。

 その壁に触れたら消える。『WALL』と名付けられた壁はゆっくりと東から西へ、日本列島を蹂躙していく。情報が錯綜し、混乱する首都圏。迫りくる絶望から目を背ける人々。

 これは、逃げる者、記録する者、そして戦う者の3視点から描いた、激動の物語。

 

感想

 「今この瞬間日本列島が危機に瀕したらどうなるか」。その再現が本書でなされていると思わざるを得ない。SNSや国家から提供される情報、正常性バイアスに翻弄されつつも、逃走・停滞・略奪など様々な選択を採る一般市民。野次馬根性でWALLに近づき、その命を落とすもの。国家の存続や国民の命よりも固定観念や権力に固執する上層部。そんな中でも最善を尽くそうと、身を削って動く者たち。

 そんな本書の登場人物一人ひとりに心当たりがあるように思える。もし日本、あるいは世界に危機が訪れた際、我々は本書の登場人物の誰かに配役されるのだ。

 

 さて、本書では3人の人物の視点から物語が描かれる。

 

①逃げる者「尾田基樹」

 北海道に出張していた尾田は、不運にもWALLに直面してしまう。政府からの避難指示と混乱によってインフラの死んだ北海道にて、尾田は愛娘の待つ愛知県へと自力で脱出するのだった。

 

 「WALLに翻弄される一般人」の役割を担っている尾田の視点は、読者が最も共感すべきところだろう。愛する者の元へと帰る。その一心で動き続ける尾田の強さには目を見張るものがある。

 また、彼の脱出道中で描写される「人間の善意」を見ると、「人間まだまだ捨てたものではない」と思えてくるのではないだろうか?

 

➁記録する者「小野田奏太」

 WALLの出現は、2011年に甚大な被害を受けた福島第一原子力発電所にも影響してくる。WALLによって原発無人になってしまえば、放射性物質の管理が出来なくなり、最終的に日本は「死の国」になる。小野田は、そんな福島第一原発で働く作業員たちを取材することで、彼らと共にWALLに立ち向かうことを決めたのだった。

 

 小野田の視点は「WALLによる二次災害」という、眼前の脅威に隠れて気が付きにくい箇所をしっかりと描写するために存在していると私は考える。そもそも、WALLが近づいている状況において「原発を守る」ということは、「WALLが日本を通過した後を見据える」ことと同義である。WALL無き後の日本の未来を考えて行動する男たちの雄姿を是非見届けてほしい。

 

③戦う者「紺野雪子」「北沢喬之」

 物理学者の雪子はある日、内閣府の官僚で、雪子の高校時代の先輩である北沢から突如呼び出される。そこで共有されたのは、色丹島で発見されたWALLのことだった。その日を境に、WALLから日本国民を守るための長き戦いが始まる。

 

 基本的にはこれがメインストーリーになる。迫りくるWALLの脅威から日本を守るために奔走する2人。ページを進めるにつれて、その緊張感がより強く感じられるようになるだろう。

 しかし、WALLを乗り越えるための「壁」が存在することは実に皮肉である。「WALLはそのうち消滅する」と主張する楽観論者たちによる士気の低下、同調圧力、妨害。本当の脅威はWALLという迫りくる壁ではなく、いつでも高くそびえたつ「人の悪意」という名の壁なのではないか。いや、寧ろそれを伝えるための「対比としてのWALL」なのではないだろうか。そう感じるほどであった。

 それはともかく。全身全霊をかけた彼らの戦いの記録は、是非本書を読んで確認してみてほしい。

 

 勿論、現実世界に本作のような「WALL」が出現することはないだろう。だが、日本は自然災害が多い国だ。本書と似たような状況になる可能性は十分にある。

 そのとき、真の「WALL」は何なのか。それだけは見誤ってはいけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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余談(ネタバレあり)

・WALLの原理については作中で説明をしているが、よくもまあ、あそこまで原理を練り上げられるものだと関心した。WALLの原理の説明パートは少し難しいが、そこも含め読んでほしい。

 

・WALLをどうしても回避できない世界線の物語を見て見たくなった。本書におけるWALLの設定は以下の通りである。

●北緯30度以南だとWALLを回避できる

●北緯28度~30度の範囲でもWALLの影響を受けない

●WALLは中部地方通過中に消滅

 

 物語をハッピーエンドで終わらせるためには、いくらかWALLを回避できる要素がないといけないのは分かっている。しかし、

●もしWALLが地球を縦に分割するような形で展開されていて、迂回することができなかったら

●もしWALLが中部地方で消滅せずに、与那国島を超え、中国、はたまた欧州まで止まることなく西進していたら

 

 これ以上は個人の好みの問題になってしまうが、バットエンドが確定した世界線も見てみたかったなと思う所存。

 

以上。

「Vtuberのエンディング、買い取ります」を読んで

 どうも、読書報告の時間です。直近2本の記事は評論文の感想だったので、今回は小説(ライトノベル)の感想でも書いていきます。

[目次]

あらすじ

 2010年代後半に突如として現れた存在、「Virtual Youtuber」。通称「Vtuber」。

 彼ら、彼女らの存在感・そしてVtuber市場はここ数年で急激な拡大を見せ、やがて「オタク文化」を語るのには必要不可欠な存在となっていた。

 そんな「大Vtuber時代」の最中、1周年記念ライブを終えた夢叶乃亜(むかなえ・のあ)が突如引退した。

 大Vtuber時代において、Vtuberの引退は珍しいものではない。しかし、「乃亜推しカルゴ」こと苅部業(かるべ・ごう)はその日全てを失った。

 全てを失った業(ごう)は、Vtuberの炎上事件をまとめるブロガーに転身する。そんな彼の元を訪れる3人のVtuber。果たして彼らの行く末は天国か、地獄か。

 

感想

 本書には地名・建物を含む大量の固有名詞が登場する。Youtube、pixiv、Discord、Boothなどなど。Vtuberを追っている人なら当たり前のように知っている単語。逆に言うと、それが物語のリアリティを強くしていると私は考える。

 とまあ、ここまで固有名詞が出てくることに少し驚いたということです。

 

 閑話休題

 

 本書に感じ取ったのは「圧倒的なまでのリアリティ」である。私はVtuberを熱心に追っているわけではないが、Twitterを開くとそういう類の情報は入ってくる。

 

あの事務所から新人がデビュー! ○○が引退! 炎上! 生配信がトレンド入り! ○○がYahooニュースに掲載! ……etc

 

 そういった情報に慣れているからか、本書に記載された内容に対して傍観者になりきることはできなかった。この349ページに書かれていることは現実的に起こり得ることなのだ。

 自らを引退させてほしいと尋ねるVtuber。炎上を起こして引退秒読みのVtuber。かつての人気Vtuberの面影を勝手に投影させられているVtuber

 本書のタイトルは「Vtuberのエンディング、買い取ります」。Vtuberにとっての理想の幕引きとは何なのか? いや、そもそも理想の引退なんてものはあるのだろうか?

 三次元のアイドルよりも身近で、それでいて不安定な「Vtuber」という存在。彼ら、彼女らを推すことに意味はあるのだろうか?それらの答えの1つが本書に提示されていると私は思う。

 「Vtuberのファン」というものは、基本的にどこまでいっても第三者だ。その愛は一方通行だ。しかし、それでも私たちは、気が付くと配信待機画面の前に座してしまうのだ。

「映画を早送りで観る人たち」を読んで

 今回もまた面白そうな本を読んだので感想をば。

 

・「映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ ― コンテンツ消費の現在形」 著:稲田豊史 (2022/4/30 光文社新書)

 

[目次]

 

本書の要約

 

 Amazon PrimeNetflixなどの台頭によっていつでも・どこでも映像作品を視聴できるようになった昨今、老若男女問わず映像作品を等速以上の速度で視聴する人が増えている。一見すると「作品を味わって鑑賞していない」「映像作品に対する冒瀆」と捉えられるような行為であるが、消費者側にもそうせざるを得ない事情があった。


・映像作品のサブスクリプション化によって、1作品にかける金銭的コスト・時間的コストが減少した。それによって、映像作品を「鑑賞」することから「消費」することへと人々の意識がシフトしていった
・特に若者において、作品の内容ではなく、周りの人との会話についていくことを重要視している
・「分かりやすさ」を重視した結果、セリフ・テロップなどによる説明過多な作品が増加。倍速視聴でもそれなりに内容を把握できるようになってしまった
・近年の娯楽コンテンツの供給過多により、映像作品の視聴時間を確保しづらくなった。そんな中で、確実に面白い作品だけを見極める「映像作品の効率的視聴」が求められている


 理由は様々だが、なぜ映像作品にまでタイムパフォーマンスを求めるようになったのか。その理由と背景を分析している。

 

感想

 

 現代日本には様々なコンテンツが存在する。特にここ十数年は、Amazon PrimeNetflixなどのサブスクリプションの充実を始めとして、インターネット環境があれば様々な娯楽を享受できるようになった。それらは我々の人生に彩りを与えてくれるが、如何せん規模が大きくなりすぎてしまったのかもしれない。それが本書で取り上げている「映像作品の早送り視聴」問題の大きな原因の1つであることは間違いない。


 そもそも、今までの人生において、一度も映像作品を早送りで視聴したことが無い人がどれだけいるだろうか?若者はいわずもがな、ある程度サブスクリプションYoutubeが使える中高年層ですら早送り視聴をするほどである。残念なことではあるが、早送り視聴はマジョリティになりつつあるのだ。

 

 私はアニメ、映画、ドラマなどのコンテンツを早送り視聴することは基本ない。「早送り視聴をすると内容が入ってこない」というのもあるが、「等速で視聴することを前提にして作られている作品は、やはり等速で観ないといけない」という考えが根底にあるからだ。しかし、Youtubeに関しては早送り視聴を多用している(1.25倍或いは1.5倍速)。なぜ、アニメ・映画・ドラマは等速で観るのに、Youtubeは早送り視聴をしてしまうのだろう。


 これについて本書では、映像作品を「芸術として鑑賞」しているのか、それとも映像作品を「コンテンツとして消費」しているのかという線引きで判断していると記載されている。つまり私の場合、アニメ・映画・ドラマは「プロが作った芸術作品」として鑑賞しているが、Youtubeの動画群は「アマチュアが作った消費コンテンツ」としてただ見ているということになる。いくらサブスクリプションが充実してきたとはいえ、前者は気軽に見返すことが出来ない可能性がある(契約している配信サイトにない、そもそも配信されていないetc)。しかし後者は、動画投稿者が作品を削除する or 運営から動画が削除されない限る、半永久的に作品が電子の海に残ることになる。この「作品視聴の機会損失の可能性」が作品を「芸術」にするのか、「コンテンツ」にするのかの要因の1つにはなっていそうだ。

 それだけでなく、動画投稿サイトに投稿される作品自体「基本的にストーリー性がない」点(1本完結)、「エンタメ性を重視している」点も大きな理由になってくるだろう。

 

 話を戻そう。本書で提示されている問題は「プロが作っている映像作品が、制作側が意図していない形で観られている」ことなのだ。映像制作のプロたちは話数・時間・コストなどの制約から逆算して、作品の細かな演出の時間を決める。これが小説・漫画などの映像化なら、1話分でどこまで進めるか、原作のどこまでを映像化するか、セリフ以外のシーンや間をどのように表現するかなどを考える必要があるので、完全オリジナル作品を作るよりも難易度は高い。そんな苦労の末に生まれた作品が早送り視聴、酷い場合はシークバーを使ったコマ飛ばしで消費されてしまうのだ。当たり前ではあるが、60分の作品は60分掛けて視聴されることを想定しているのだ。巻き戻しはあるかもしれないが、早送りはされない想定なのだ。


 なにも「アニメ・映画・ドラマの方がYoutuberの作ったコンテンツより優れている」と言いたいわけではない。動画投稿サイトの作品群も、クリエイター的には等速で視聴してほしいところだろう。しかし、動画時間や構成に柔軟性を持てる動画投稿サイトよりも、計算されつくされた構成と大掛かりなコストの元に作成された映像作品の方が、等速視聴で得られる恩恵が大きいというだけの話である。

 

 ここまで、早送り視聴をする人を批判するような文章を書いてきたが、本当は早送り視聴をする人ではなく、彼らを取り巻く環境に問題があるのかもしれない。なぜ彼らは早送り視聴をしてしまうのか。本書にはいくつかの理由が記載されていたが、私が特に気になったものを3点挙げたい。

 

①時間がない

 

 単純に「時間がない」のである。時間がないから取り合えず早送り視聴をする。ずっと作品を積むことで生じる焦燥感に駆られるよりマシだから。
 また、「友達の話についていくため」というのもここに当てはまるだろう。アニメやドラマの話についていけないだけで切れる友人関係などこちらから願い下げ、と言いたいところだがそうもいかないらしい。次に友達に会う日まで「時間がない」から早送り。現代人が忙しいのは当たり前だが、これらは映像作品を「コンテンツ」として時間内に「消費」することを第一に考えているからこその発想だろう。
 
➁ストレスを解消したい、自分が見たいものだけ見たい

 

 現代社会はストレス社会とも言い換えられる。疲れて帰ってきたところでドラマでも見ようとしたら、主人公がいじめられているシーン、人間の黒い部分を生々しく描写したシーン、腹が立つシーン。生きているだけでもストレスが貯まるのに、なぜ娯楽にまでストレスを感じないといけないのだろうか。
 勿論、作品の構成上、暗いシーンがあったらその後どこかにスカッとするシーンが入っていることが多い。だが、そのスカッとするシーンを待つだけの余裕がない。現に私も、ドラマ内で腹が立つシーンはあまり見たくない。

 

③より深く見たい

 

 これは劇場での映画鑑賞に見られるのだが、予め映画のネタバレサイトで内容の予習をした上で本編を視聴すると、登場人物のセリフの意味が分かったり、細かい演出に気が付けたりして更に楽しめるらしい。初見で映画を見て理解できない部分があったときに、そのモヤモヤ感を抱えたままでいるのが気に入らないらしい。正直、この意見については私は賛同できない。基本的に映画は初見の状態で観た方がいいと思うのだが。寧ろ、創作というものは余白・考察の余地があるくらいでちょうどいい。

 

 本書はアニメ・映画・ドラマを早送り視聴する習慣のなかった私にとっては、とても興味深い1冊であった。早送り視聴の理由が、突き詰めると「人間関係」に起因するものが多いというもの興味深かった。
 しかし、今度も私はアニメ・映画・ドラマを早送り視聴することは基本ないだろう。だが、Youtubeの早送り視聴はやめられそうにない。私もまた時間の奴隷なのだ。

Z世代の俺がZ世代を分析する本を読んだ

 不定期に訪れる読書報告です。今回はZ世代に関する本を読んだ感想を適当に書いていこうと思います。


・「Z世代 若者はなぜインスタ・TikTokにハマるのか?」 著:原田曜平 (2020/11/20 光文社新書)

 

[目次]

 

本書の要約

 

 日本のマーケティング市場では、次世代の消費者として「Z世代(1990年代中盤~2000年代序盤に生まれた世代)」が注目されている。そんなZ世代を分析してみると、


・生産人口の減少による売り手市場化によって、仕事よりもプライベートを優先するような『チル(まったりする、というような意味)』という価値観が広まっていること
SNSで自分のことを発信したがる欲求、それに伴う承認欲求が高まりつつあるが、ネット上でできるだけ波風を立てないようにする同調志向も垣間見えること
・一人っ子率の増加によって、親に過保護に育てられたことで自意識が高くなっていること
などの特徴が見えてきた。そんなZ世代の特徴を踏まえたマーケティングを行う際に何を重視すればいいのか、過去にZ世代に好評だった商品・サービスに共通していることは何なのか。それらを実際の取材や当時の社会情勢などから分析している。

 

感想

 

 まず、本書で定義されているZ世代の特徴がほぼ自分に当てはまることに驚いた。振り返ってみると、私の余暇の過ごし方は思いっきりチルっているし、発信力・承認欲求共に強いし、自意識も多分高い。バーナム効果だと指摘されればそれまでだが、私もまた典型的なZ世代ということなのだろうか。昔から「周りの人間とは違う」と思っていただけに意外だった。


 本書は、まず前半でZ世代をマーケティング対象に据えることの重要性、Z世代の特徴を述べ、中盤以降はZ世代間で流行ったもの、メディアの使い方、コロナ禍のZ世代、Z世代を引き付けるキーワード等について記載されている。特に、Z世代間で流行ったコンテンツやモノ・サービスを紹介する章では、私の知らない単語や概念が飛び交っていて混乱したほどだ。まあ、私が昨今の流行やトレンドに疎いこと、Instagram・TicTokをやっていないからというのもあるかもしれないが。
 中には「何故こんなモノが流行ったんだろう」と思うものもあった。一歩引いた目で見ればそう感じるモノも、今を生きる若者たちからすれば、そこに「彼らにしか感じることの出来ない価値」があるのだろう。重要なのは、全てを一概に否定しないこと。流行るモノにはそれなりの理由があるはずだ。


 本書は令和の若者を理解する上で重要な参考書になり得る。若者向けのマーケティングを検討している人、昨今の若手社員に対する対応に悩んでいる人にとっては、何かしらのヒントを与えてくれるだろう。


 かく言う私もZ世代の一員である。発信欲求・承認欲求がなければ今頃こんなブログは書いていないし、自意識過剰でなければこんな駄文を世の中に晒す愚行は犯していない。そんなZ世代の私でも本書に書かれていることに全て共感できたわけではない。この激動の時代において、若者のことを理解する難易度は年々難しくなってきているはずだ。それでもお互いにお互いを理解し合うことができたなら、それはビジネスにおいても、交友関係においてもプラスに働くことは間違いない。 

青木ヶ原樹海を散歩してたら自殺志願者に間違えられた話

 私事ですが、3/3~3/5の3日間で山梨の方に一人旅をしていました。幼稚園時代を過ごした山梨を再び訪れたいと思ったことが大きな理由です。

 幼稚園生の当時は世界が広く見えたものですが、大人になってから当時の生活圏を散歩してみると、いかに自分が狭い世界で生きていたかがよく分かりました。平日はほぼ幼稚園と自宅の往復……みたいな生活でも、退屈した毎日を過ごしていたという記憶はあまりないです。当時は毎日が充実していたということでしょうか?

 旅行ではほったらかし温泉忍野八海などの観光名所を訪れました。事前に組み立てたスケジュールを元に、一人で自由気ままに旅をするというのは楽しいですね。夏あたりにまたやりたいところ。

 ですが、一歩間違えていれば、日常生活に戻ることができなかった可能性があったかもしれません……。

 

 

 

 

 

 2023年3月3日(旅行1日目)の昼過ぎ。富岳風穴の観光を終えた私は、青木ヶ原樹海を少し散歩してみようと思った。元々時間調整用の追加観光地として青木ヶ原樹海のことはメモしていた。

 

 

「ザ・樹海」と言うべきか。踏み固められた通路以外には、360度どこを見ても「樹」しかない。普通に歩く分にはとても神秘的な場所だと思う。

 だが、青木ヶ原樹海は「自殺の名所」としても有名である。それを強く実感したのは、樹海を歩き始めて2,3分経ったときだった。

 

 前方から2人組のおじいさんが歩いてきた。ふと「こんにちは」と声を掛けられた。

まあ、登山やハイキング中に人から挨拶されることは珍しくない。「こんにちは」と挨拶を交わして先に進んだ。すると数分後、先ほどのおじいさんたちが追いかけてくるではないか。

 

「ちょっとすいません」

 

 正直この一言で察した。そうか、俺は傍から見たら自殺者みたいな顔をしているのか……。

「いやぁね、いきなり呼び止めてごめんね。ほら、知っていると思うけどココって自殺しちゃう人が多いからさ。お兄さんみたいに1人でここ歩いてる人は、そういう可能性があるからさ」

↑(大体こんな感じだった)

 

 どうやらおじいさん達は自殺予防のためのボランティアの人らしい。最初に呼び止められたときは驚いたが、よくよく考えたら私は陰キャで根暗だ。おじいさんたちに悪気はない。

 少し話したあと、荷物チェックをされた。

「バッグの中に縄とかが入っていると流石に話が変わってくるからね」

 なるほど、樹海自殺のトレンドは首吊りなのか。これは勉強になったかもしれない。

 私は今回、観光のために樹海を訪れている。当然縄やナイフや薬などは持ち得ていない。

 荷物チェックが終わった後、私は2人に、樹海を少し歩いたら車に戻ると告げた。荷物に危険物がないこと、私が車で来ていることを確認した2人は、「通路から道を外れないように」と忠告してこの場を去った。少々サプライズではあったが、私はもう少し樹海を散歩してみることにした。

 

 

 樹海の奥は静まり返っていた。周囲の木々が音を吸収してしまうからだ。ふと周りを見渡す。入口付近より生い茂っている木々。なるほど、通路から道を外れたらその先は「死」あるのみだと思った。

 通路の上で樹海の静謐さを感じている分には、非日常感があってとても良かった。だが、通路から道を外れた瞬間、樹海の静謐さは悪魔の囁きへと変貌する。そんなことを思ったら怖くなってしまったので、来た道を引き返すことにした。

 

 

 

 

 私には自殺願望がある。そいつとは高校3年生から実に数年間の付き合いである。それでも恥をさらしながら今まで生きてきたわけだが、所詮自傷行為に手を出したことがまだないだけである。

 だが、人生の最期は既に頭の中で思い描いている。青木ヶ原樹海の中で自殺することだ。樹海の中で誰にも見つからず、ゆっくりとした時間を樹海の中で過ごし、やがて力尽きる(かなり理想論ではあるが……)。

 今回の旅で青木ヶ原樹海を観光地候補に選んだのは、いわば「自殺場所の下見」だ。とは言っても実行は大分先になると思うが……。そんな矢先に「声掛け」にあったわけである。それはもうビックリした。

 今回の一件で、死ぬことが少し怖くなった(情けない話ではあるが)。自分の自殺プラン通りだと、あの静寂の中を1人で何日も過ごすことになるのだ。今の精神状態だと耐えられない可能性がある。何より、樹海を彷徨っているうちに死体とかに出くわすのが多分一番怖い。まあ、自分が臆病なだけなんですけどね。

 だが、今後樹海で自殺をするに当たって、今回の経験は勉強になったと思う。樹海の奥地に入るまで人と出会わないようにすることが一番大事だということが分かった。

 この経験を生かすときは遠い先の話になると思うが……、人生に深く絶望するその時までは、このことは少し忘れておきたい。堪能しきれていない娯楽が多すぎるのだ。