オギの備忘録

やあ、私の名はオギだ。何かを発信したかった。ブログを開設した理由はそれだけで十分さ。

「鈴波アミを待っています」を読んで

[目次]

 

はじめに


 お久しぶりです(n回目)! オギです!
 さて! 皆さん、突然ですが「バーチャルYouTuber(以後Vtuber)」というモノをご存知でしょうか?まあ、最近何かと話題になっていますし(良い意味でも悪い意味でも)、名前くらいは聞いたことがある方が多いのではないのでしょうか? 私のtwitterからこのブログにアクセスされている方ならば言わずもがな、でしょう(適当)。
 知らない方のために一応VTuberの定義を書いておきます。

 

 バーチャルYouTuber(バーチャルユーチューバー、英: Virtual YouTuber)は、2016年12月に活動を開始したキズナアイがYouTuber活動を行う際に自身を称した事に始まる語である。

 元々はキズナアイ自体を指す語であったが、2017年末以降では主にインターネットやメディアで活動する2DCGや3DCGで描画されたキャラクター(アバター)、もしくはそれらを用いて動画投稿・生放送を行う配信者の総称を指す語として使用されている。

 略語として「VTuber」「Vチューバー」(ブイチューバー)ともいう。*1

 


 ところで。なぜ私が冒頭で突然「VTuber」というワードを取り上げたのか? それは、今回紹介する本の中核にもなってくる存在であるからです。

 


「鈴波アミを待っています」について


 今回紹介する本は「鈴波アミを待っています」という本です(早川書房 2022年3月25日発行 作者:塗田一帆(ぬるた いっぽ))。

 

 この本は池袋のジュンク堂書店でたまたま見つけました。私は新書を買う際に通称「ジャケ買い」というものを行うことがあります。そうです、基本はレコード・CDに対して行うジャケ買いを私は本に対して行っているのです。表紙の絵柄を見て「おっ!」となったら買う。それが自分に合っているかどうかは後程考える。そんな適当具合です。本書もジャケ買いで買った一冊です。


 本書「鈴波アミを待っています」の装画はイラストレーター兼アーティストの「しぐれうい」先生が担当しています。しぐれうい先生はVtuberの立ち絵のデザインを手掛けています。あとは分かりますね。……そういうことです。

 以下、本作裏面記載のあらすじです。

 

 Vtuber「鈴波アミ」がデビュー1周年を迎えた夜。しかし、待望の配信は始まらなかった。彼女は突如失踪してしまったのだ。視聴者たちは"推し"の復帰を信じて、1年間の配信アーカイブを同時視聴して待ち続ける。新型コロナによって社会も混乱していくなか、鈴波アミと視聴者の未来は……?メタバース時代のネット文化が生んだ感動のストーリー!

 


感想

本書を読んで

 私は本書を読んで、ここ2,3年くらいの現状を赤裸々に描いているなという感想を最初に抱きました。メタバースVR、そして新型コロナによる社会活動の縮小。特に、背景にコロナ禍を取り入れた作品を初めて読んだので、新鮮に感じました(新型コロナを作品背景に取り入れた作品はドラマ「和田家の男たち」しか知らなかった)。


 本作はVtuber好きな人には読んでほしい作品です。勿論「活字は嫌い」「読書する時間がない」という方もいらっしゃるでしょう。ですが、本作全体は200ページと少なめで、文も読みやすかったです。また、YouTubeのコメント欄を模した箇所が頻繁に出てくるので、体感ページ数は150~180ページくらいです。発売されてから間もないので今から読んでも遅くありませんし、比較的短時間で読むことができます。

 

Vtuberのリスナーってなんだろう


 本作では主人公の名前は最後まで語られません(一人称が「俺」なので男性ではある)。これは、本書を読んでいる私たち1人1人が主人公のような状況、言わば「ただの"いちリスナー"」であることを表しています。主人公は社会的に優れた立場であるわけでもなければ、SNS上のインフルエンサーというわけでもありません。そんな主人公は推し「鈴波アミ」の失踪した日の翌日から、1年前同日の配信アーカイブを同時視聴することを提案します。そこから、いつ帰ってくるとも分からない推しを待ち続ける日々が始まります。

 しかし、それでも世界は刻々と変化し続けます。自分たちを置き去りにして進みゆく世界と、いくつかの出来事に遭遇し、いつしか主人公は「Vtuberのリスナー」という存在に留まっている自分、そしてVtuberの存在自体に疑問を持ち、絶望してします。

 

 まるで自分自身を見ているような気持ちになりました。私は本書の主人公ほどVtuberに執心はしていません。しかし、自分の無力さを痛感して絶望したことなら何度もありました。SNSの発達によって、各方面のプロの技がいくらでも目に留まるようになった昨今。自分の中の劣等感を刺激するには充分すぎる環境です。私は絵を描くことは勿論、作曲、楽器も出来ません。かと言って、Vtuberに見境なく金銭も時間も渡すこともできません(自分が無駄にリアリストで冷静なのと、飽き性なため)。それでも「自分がいた証・生きた証を残したい」。私の場合はそういった動機付けで色々なことを始めました。質問箱、ブログ、小説執筆、動画編集、ツイキャス配信etc。閲覧数・同接数は気にしていないつもりでも、それらに多少気を取られ、挙句の果てには枷にすら感じてしまう始末。全くもって情けないです。そんな、今自分が感じている無力感と主人公の境遇が重なりました。

 

 配信者たちはよく言います。「リスナーのおかげで配信が続けられている」と。果たして本当にそうでしょうか? リスナーはあくまでも大多数の中の1人であって、配信者と特別な関係になれるわけではないです。悪い言い方をすれば、私たちは「配信者の養分」なのです。そんなことはとっくに分かっていたはずです。アイドルの追っかけもそうですしね。見方を変えればスポーツ観戦ですら同じように捉えられます。コンテンツという花が存在する限り、視聴者・サポーター・ファン・信者という栄養は必要不可欠なのです。特にVtuberは自宅に居ながら応援出来るという性質上、余計に孤独に感じるだけで。

 

 ですが、結局それらは私たちの中の劣等感が原因なのです。世の中というものは、複雑に見えて案外単純なものです。ただただコンテンツを消費するだけの存在で何が悪い! 本来「娯楽」とは消費されてナンボのはず。そこに使命感や義務感を抱くようになってしまったのは、SNS文化の弊害と言えるのかもしれません。

 

 過去に賢人たちが「人生の意味」について考えてきました。しかし「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」。どう考えたって答えの出ない問題はあります。Vtuberのリスナー、つまり「娯楽の消費者」についてもそうです。そこに意義や意味を見出すことは難しいでしょう。なぜなら当人たちは「楽しいから」などの至極単純な理由でそれを享受しているのだから。人間はそこまで賢くはないのです。

 

最後に


 本書ほど「配信者」という存在に迫った作品は初めて読んだので、なかなかに興味深かったです。
 これは余談になりますが、本書の最後に公式として、感想ハッシュタグ「#鈴波アミを待っています」、ファンアートタグ「#鈴波アート」が指定されています。現実とリンクしたような気分になって面白いですね。

 

 2018年頃から熱を持ち始めたVtuber界隈。しかし、その歴史はまだ5,6年と浅いです。しかしそれ以上の密度を感じるのは、ひとえに毎日供給される膨大なコンテンツ量に起因するところがあると思います。Vtuber業界の日々の発展は目を見張るものがありますが、その反面で数多くの問題・不祥事があることも事実です。これはVtuber業界が世間一般的に「集客力のある一大コンテンツ」という側面を認められていないことによるものではないかと考えられます(Vtuberは基本実体がないので、コンテンツとして捉えることはまだ難しいのかもしれませんが……)。しかし3月に開催された「hololive SUPER EXPO 2022」のように、実績を残しているVtuberのリアルイベントも存在します。さらにはメタバース技術が発達すれば、Vtuberが実体を持って我々の目の前でライブを行う、なんていうことも可能になるかもしれません。

 

 そんな時代を目前に控えた今、Vtuberのリスナーは他のコンテンツのファンと同等な存在にあるのではないでしょうか? コンテンツに優劣がないように、そのファンもまた優劣がない状況でなければならないはずです(しかしマナー違反者はNG)。Vtuberのリスナーであること。それだけで貴方のアイデンティティは確立されているのです。
 私たちは待っているのです。新しい時代の到来を。

 

[参考文献]