オギの備忘録

やあ、私の名はオギだ。何かを発信したかった。ブログを開設した理由はそれだけで十分さ。

「人間みたいに生きている」を読んで

 

 と、いうわけで読書感想文を書いていこうと思います。もともとこういうのをやりたくてブログを再開してるんでね(前回記事参照)。

 

 まずはあらすじ紹介。以下、帯に記載されている原文ママです。

 

 食べることそのものに嫌悪を覚えている女子高生・三橋唯。「食べること」と「人のつながり」はあまりに分かちがたく、孤独に自分を否定するしかなかった唯が初めて居場所を見つけたのは、食べ物の匂いがしない「吸血鬼の館」だった──。

 

 

 私がこの本を手に取った理由は極めてシンプルである。
 私自身が自分のことを「人間に相応しくない」と常日頃思っているからだ。「人間失格」とでも言うのだろうか。何をもって人間失格なのか。人間として生まれ生きているのに、人間に相応しくないとはどういうことだ。そんなツッコミが各方面から飛んできそうではある。まあ、もっと嚙み砕いて表現するならば、「常に自責の念を抱いている」といったところだろうか。

 

 そんな私だからこそ、本著のタイトルに惹かれた。特に本著の帯に記載されている「孤独」だとか「人間みたいに」とかいう部分が刺さった。「中二病じゃないんだからさぁ……」と一蹴されればそれまでだが、少なくとも、私にとってこの感情は一過性のものではない。

 

 

 さて、本著の感想を述べていこう。
 
 主人公である女子高生、三橋唯。彼女は拒食症でもなければ、その他一切の病気はない。ただ、食材を飲み込むことに吐き気を催すほどの嫌悪感があるだけで、それ以外は読書好きの普通の女子高生として描かれている。しかし女性、とりわけ女子高生という人種は、周りの人間と協調しながら生活することを強く求められる。それは20代男性である私でも何となく分かる。


 友人と弁当を食べながら談笑する昼休み。スイーツやファストフードを食べながら楽しく過ごす放課後。家族で食卓を囲む夕食時。他人と深く、長く付き合っていくためにはどうしても「会食」が必要になってくる。例えば、周りの友人たちが食事をしている傍らで、自分だけが何も注文せずに水だけをチビチビと飲んでいる様を想像してみてほしい。いくら仲の良い友人と一緒にいるとはいえ、若干気まずいと思わないだろうか? 男性である私が若干気まずいと感じるレベルなのだ。いわんや、日本の女子高生をや(個人差があると言えばそれまでだが)。


 かと言って、自分の状況を他人に説明して理解してもらおうと思えど、理解は得られない。病気でもないのに食事が苦痛に感じる? そんなことはマジョリティには共感されない。「多数決における少数意見の尊重」は義務教育で学習はするが、結局は数が多い方が正義なのだ。彼らは常に自分の中にある常識だけで判断しようとする。この世界のマジョリティは衆愚なのだ。


 そんなわけだから、誰にも何も言えないまま、人間関係の維持のために演技を続ける。それが三橋唯だった。

 ところが町の離れの洋館に住む泉さんと出会ってから、唯の生活は変わった。泉さんは食べ物を咀嚼することすら出来ない珍しい病気を抱えている。同じ食べ物が食べられない人間同士、2人は夏休みのほとんどにおいて同じ時間・場所を共有するようになる。

 


 本著で印象に残った場面がある。それは、唯と泉さんが一度決別するシーンだ。
 唯と泉さんには決定的な違いがあった。それは、「食べ物を飲み込めるか否か」である。それは2人にすれ違いを起こさせるのには十分だった。例え食べ物を食べられなくても、それを一旦飲み込むことができるのならば、他人の前で一応は取り繕うことができる。何とか人間関係を維持することができる。だが、泉さんにはそれすら出来ない。


「同じ仲間なんだから今の自分の気持ちくらい察して慰めろ、なんて無理な話だ」


 自分のことを一番よく知っているのはどこまで行っても自分であり、それ以上の理解者は得られない。至極単純なことだが、それでも人は「誰かに自分を理解してほしい」と求めてしまう。自分にとって都合のいい理解者を求めてしまう。人は一人では生きていけないと言うが、こういうことを含めてなのだろうか? いずれにせよ、人間とは身勝手な生き物だ。

 

 本書はハッピーエンドで終わる、とは言い難い。唯も泉さんも症状は治っていないし、症状のカミングアウトも作中ではごく一部の人にしかしていない。だが唯は、「食べ物を飲み込むことに嫌悪感を感じる自分」と向き合うことを決意している。それを進歩と捉えるか、現状維持と捉えるか。読者の解釈次第である。

 

 

 正直、本書を読んでいて登場人物に腹が立つ場面もあった。なぜ、周りの人間は自分の常識を他人に平気で押し付けてくるのだろうか。無意識にやっているからこそ質が悪い、と。


 だが上記の考えも、自分にとって都合のいい理解者、つまり登場人物を求めているだけなのだと、これを執筆している今気が付いた。これでは私もその他多数と変わらないではないか。否、私も結局は「人間」であるということの証左なのだろうか?

 

 私は他人に対する関心が薄い。どこまで行っても自分と他人は完全に交わらないし、完全に交わらない人間の人生に過度な口出しをする権利は双方にないと考えているからだ。そんな私は勿論、周りの人たちも実は「人間みたいに生きている」だけなのかもしれない。


 そう考えると、各所でこの「人間ごっこ」を無限に繰り返しているこの世界を面白く生きられるかもしれない。